気温は19度。小春日和の心地よい日射しの中。
金井泉は林田の言いつけで――――走っていた。いや、正しくは林田に言いつけられた内海の頼みにより走らされていた。理由は簡単である。本来、泉はほわほわとのんびりした人のいい性格の持ち主である。そして、内海は要領がよく、かつちゃっかりとした、さらに少々人使いの荒い性格の持ち主だ。それ故。つまり、泉は内海にまんまと使われてしまったわけである。
『ゴメン泉。あたし、今から部活あるんだけどね?林田先生に、これ頼まれちゃって。どうしても抜けられないんだけど……泉、代わってくれない?』
『…これ?』
『そう、これ。全部職員室まで運んでくれって』
『…全部?』
『そう。ゴメン、頼むね』
そういって内海はにこにこ笑いながら、机に山盛りの書類やノートと泉一人を残して、教室を出ていってしまった。
あたしも、今日ちょっと見たいドラマの再放送、あったんだけどなぁ。
そう思っても、泉しかいないこの教室で、人がいい泉はほっぽっていくことも出来ず、仕方なく運びに取りかかった。ちなみに、内海は部活なんかしてはいない。ただ今、体育館で三村と七原のバスケマンツーマンの試合を見て興奮しているのだが、そんなことは微塵も知らない泉は、机にてんこ盛りのこのノートやファイルの山を見て、林田はこんな量を内海一人に運ばせようとしたのかと漠然と思いながら、2〜3回に分けて運ぼうと決めた。
城岩中学校は、基本的に1年が1階、2年が2階、3年が3階というふうにできている。しかも、B組はどういう訳か一番階段から遠い。職員室はというと、これは当然のように1階にある。さらに、これまたどういう訳か階段からかなり遠いところにある。
これを3往復は、結構な運動量になる。と共に、かかる時間もかなりのものだ。泉は今、2往復目の行きである。
ぎりぎり両手いっぱいに持てるくらいのノートとファイル。それを抱えて泉は疲労した足に鞭を打って階段を駆け下りる。
「量、多いよ…」
時々立ち止まって、それでもドラマが。時間を気にして腕時計を見ようとすると、普通に持っていても危なっかしい状態だった荷物が落ちる。もう落としたのは3回目だ。悪循環。
…ヤバイよ、後20分しかない…!
家から学校までは、幸い本気で走れば10分とかからない。しかし、あと1往復半残っていてこの疲労では、本気で走れそうにもない。間違いなく時間が足りない。
ガサガサッと乱雑にノート類をかき集め、慌ててまた階段を駆け下りようとした。
と。
がくんっと視界が揺れ、続いて右足首に激痛。
「うわっ!」
落ちる瞬間に低くてよく通る声と、オレンジ色の何かを見て、ちょうど10段下の1階廊下に転落した。
「…たぁ…」
痛みがある程度治まってから顔を上げる。よくあるパターンだ。情けない。
ふと気がつくと、何かの上に乗っていることに気付く。
「……誰?何?学ラン?」
「いや、どいてくれねぇ?いい加減」
声と、オレンジ色の正体が泉の真下で仰向けで転がっていた。…つまり。
「…ぬ…沼田君!?」
「沼井」
…の、上にダイブして、さらに下敷きにしてクッションになってもらってしまったわけだ。さらにここで下敷きになった人が王子様ならば少女マンガチックなパターンなのだが。いかんせん、相手は城岩中きっての不良グループの一人。
「ご…ごめんねごめんね!大丈夫?ゴメンあたし重いから!!怪我してない?ホントごめんねぇ!!」
「つーかいいからどけ。さすがに重い」
あ、と気付いてそそくさと沼井の上からどきながら、ちょっと泉は傷ついた。そうだよね、あたし重いよね。最近1キロ太って…ああ、ダイエットしようかな。
「…あ、いや。あんたが重いんじゃなくて…あんたが持ってる、それ」
ちょっとうつむいた泉に気が付いたのか、慌てて沼井は弁解するように早口で言って、泉のしっかり抱きかかえていたノート類を指さした。
…あ。無意識で、しっかり持ってたんだ。
「…ごめん、怪我は?」
「ねぇよ」
簡潔に答えてそっぽを向く沼井。だが、首筋にうっすらと痣が出来ているのを泉は見つけてしまった。
「……!沼井君、首筋!痣出来てるよ!!ごめんね今ので出来たんでしょ!?」
「…これ、さっきケンカで作ったヤツだよ。今ので怪我はない」
「でも!」
傷は青紫になっていて、とても痛そうだ。冷やした方が、いいんじゃないだろうか。
「気にすんなよ。つーかあんた、それ運ぶんだろ?さっさと行けよ」
傷を隠すように沼井は勢いよく立ち上がった。膝に左手を置いて、泉の方にすっと右手を差し出した。
……不良、なのに。女の子に優しいってホントだったわ。
「あ…ありがと」
泉も、いったん持っている物を置いて、右手でそれをつかんだ。ぐいっと沼井が引っ張って、勢いに乗って泉は立っ………
半分立ったところで、へちゃりとまた泉は廊下へ逆戻り。
「……あれ?」
「何やってんの、あんた」
半眼で沼井が泉を見下ろす。もう一度右手を差し出してくれる。もう一度やっても、同じだった。
「…俺からかってるわけ?」
「…いや、そんなことは……」
泉は今度は一人で立とうとした。が、また廊下へ逆戻り。
「沼井君、どうしよ…」
「は?」
「立てない…」
かなり真剣な顔で、泉は言った。なぜだか沼井はその顔を見て笑い出しそうになったが、気力で押しとどめる。
「……足捻った?」
「…みたい…」
ああ、ドラマ、見れないや。というか家にも帰れないじゃない。あれ?その前に幸枝ちゃんから頼まれたこれ、できないわ。…じゃなくて、沼井君に迷惑かけちゃうよ!
「……その、ノートとかは?」
「あ、職員室に……」
肩でため息をついた沼井は、やれやれといったふうに散らばったノートやファイルを1つ1つ丁寧に拾い上げていく。
「つーかぁ、林田もこんなもん女一人に持たすなって感じじゃんなー」
「………ぇ、あ…」
「あんた一人で保健室いて手当てしてもらえよ」
「え?」
「すぐそこだろ。そこまであんた行けんだろ?」
「いや、だってそのノート…」
「俺が行く」
泉の顔も見ないで、淡々と沼井はそう告げた。かなりの量があったノート達はみるみる沼井の手に拾い上げられていった。泉がいっぱいいっぱいだったその量も、沼井が持つとかなり余裕だ。
「…ありがと…」
「行けんだろ?これ持ってったあと、荷物持ってきてやるから、保健室いろ」
「あ……あの、沼井君‥?」
「あぁ?」
お兄さん、睨みきかせても無駄ですよ。優しいの分かったもん。いや、でも。
「あのさ、……まだあるんだ、運ぶの…」
「まだ?この他にもか?」
「教室に、あと一山…」
つくづく申し訳ない。元々、あたしが引き受けたのに。泉はため息をつきたくなった。
「いいよ、俺やる。あとで奢れ」
「え」
「保健室で待ってろよ」
すたすたと沼井は行ってしまった。
いやいや、彼氏と彼女の会話みたいだったと泉は思い返して苦笑したのだが、まあとりあえず保健室へ行こうと右足を引きずりながら泉は廊下を回れ右したのだった。
保健室にやっとの思いでたどり着くと、そこはもぬけの殻だった。先生の机の上には、『ちょっと出かけます。怪我した子は頑張ってねv』などと無責任な走り書き。あまり器用な方ではない泉は、くるくる回る椅子に腰掛けてはぁッとため息をついた。
あーもう。何でこんな事になっちゃったの。だいたい、そうよ幸枝ちゃんが悪いのよ。あたしだってやりたいことあったのにさ。林田先生も林田先生よね、あんなのか弱い現役女子中学生一人に持ってこさせようとかいう思考自体が間違ってるわよ。沼井君を見習いなさいよね。沼井君、優しいな。びっくりしちゃった。貴子とかがいっつも、桐山ファミリーは近付くな、とか言ってたからどんなに怖い人たちかと思ってたけど。あ、まあ一部の噂では女の子には優しい(フェミニスト?・笑)っていう噂もあったけど。顔も可愛い顔してるし。髪の毛オレンジ色だけど。あれもあれで結構きれいに染まってるし、髪型、あたしの好みなんだよね、沼井君って。
「金井、いるか?」
ガラッと保健室のドアを開けて、沼井が入ってきた。
いきなり当の本人のご登場で、泉の思考は中断されたのだが、顔がボッと赤くなる。
うわわ、何で赤くなってんのよあたし!別に沼井君のこと好きでも何でもないでしょぉ!!てゆうか、沼井君、あたしの名前知ってたんだ。
「おら、荷物」
ポイッと長椅子に放り出すように置かれた荷物。確か教科書とか全部入れてなかったのに、ちゃんと入れてくれたんだね。うわーますます優しい。
「教科書とか、適当に全部入れといたぜ。置き勉とかしねぇだろ金井は?」
「あ、うん。ありがと!」
顔がにやけるのを感じながら泉は礼を言った。何か、嬉しいなぁ。
「手当てしたのかよ?」
「え?あ……忘れてた」
「…あんたって、マジに天然だな」
呆れたように沼井が言うのにも、えへへと笑って返す。怪訝そうな顔をして泉を見る沼井。また、仕方ねぇなぁ、とため息をついた。
「あんた不器用だろ?実は」
「え、なんで?」
「なんとなくだよ。ほら、足出せ」
いつの間にかシップを持っていた沼井は、泉の前に立て膝を付いた。
いやーいつか見た映画であった、ワンシーンみたい!
そのシーンとは、確か王子様がお姫様に立て膝を付いて手の甲にキスをする、よくあるありきたりなシーンなのだが、まぁ構図的にいえば重なる。
「右?左?」
「右」
あ、そう、と素っ気なく返事する沼井。沼井が下を向くと、泉には沼井の頭が見える。
ぎゅ。
「…何すんの?」
「え?あ、いやなんとなく」
思わず、つむじを押してしまった。かなり無意識な行動だったので、理由に困った泉はあははと乾いた笑いを返した。いやホント、何してんのよあたし。
くるくると巻かれる包帯の感触と、沼井の手の感触。目の前にはきれいに染まったオレンジ色の沼井の髪の毛。沼井が不良というのが嘘みたいだ。
「沼井君の髪ってさ、きれいだよね」
「は?」
また突然何を言い出すんだよこの天然姫は、と沼井は顔を上げる。俺の髪が、きれい?
「博に染めてもらったからな。あいつの親、両方とも美容師やってるし」
かったるそうに答える。
「博?」
「黒長」
ああ、黒長君か、と泉は頷く。
「黒長君って、博って言うんだ」
「知らねぇの?じゃ、俺の下の名前とかしらねぇ?」
「あ、充君でしょ?」
当然のように返す泉に、ちょっとびっくりする沼井。
「何で知ってんの?」
「えー…いや、なんでだろうね」
なんとなく、覚えていたのだ。理由など無い。
「そういう充君は、あたしの下の名前、知ってる?」
「いきなり下の名前で呼ぶのかよ…」
「イヤ?」
「別にいいけどな。沼井って呼ばれ慣れてねぇしな」
「じゃ、いいでしょ。ねぇ、あたしの下の名前、知ってる?」
「……知らねぇよ」
下を向いて、また沼井は包帯を巻くのを再開させた。
「泉。金井泉よ、充君。覚えててね。あたし金井って呼ばれるより泉って呼ばれる方が好きなの」
「泉?」
「そう。きれいな名前でしょ?」
「ふーん」
ピッと固定テープでとめる。さぁ、これで完了。
「おーわり!」
「ありがとう、充君!」
やっと帰れる、と思う。…あ。
「あ――――!!」
「!!何だよ!?」
沼井もびっくりな大声を上げた泉は、腕時計を見てがくんとしゃがみ込んだ。
「……何?なんなわけ?」
おそるおそる沼井は聞いてみる。
「………ドラマ、終わっちゃったよぉ……」
あれ。あれ、あぁおもしろかったのに!
「ドラマって?」
「今日、4時半から再放送してたやつ……あーもう駄目だ、泣いちゃいそうー」
あああと涙を流す泉。沼井は何かを思いだしたようにちょっと目を大きくした。
「ああ、それ多分俺の姉ちゃんがビデオ持ってる」
「……!?うそそれほんと!?」
一瞬にして復活する泉。そんなに好きか、そのドラマ。
「だって!あたしの好きな大宮哲がでてるもの!!」
口に出してもいない沼井の疑問に、大声で返す泉。おいおい、お前エスパーかよ。
「お願いお願い充君!そのビデオ、貸して!お姉さんに頼んで!何でもするから!!」
「……あー…頼んでみる」
キャーとはしゃぐ嬉しそうな泉の顔を見て、沼井はふと笑みを漏らした。
……おいおい、何やってんだ俺は。別に今日は何も用事なかったしな。ケンカのご予定もなかったしな。
別に、用事的にはいいんだけどよ。何青春しちゃってんの俺。放課後に、保健室に、目の前には嬉しそうなお嬢様、+頬を染めた俺。…あほくせー。竜平たちに話したら笑われるな、間違いなく。
「ねぇ充君?このあと、暇?」
突然泉が沼井に話しかけた。ぼけーっと考え事をしていた沼井は、不意を付かれてへっ?と何とも間抜けな返事。
「…あ……え?このあと?」
咳払いをして、返事のし直し。沼井はくすっと泉が笑ったのが視界の端っこに映って、なんとなく顔が赤くなるのを感じた。
「そう。いろいろお礼しなきゃ。頑張って奢るわよ!」
「いや頑張るものかよそれは?」
そう答えつつ、別に用はなかったなと考える。まぁ、お嬢様とデートも悪くないか。
「暇だけど。何奢ってくれるわけ?」
「暇?よし、じゃあ、何か食べたい?」
「あー…ケンタか、マック。ミスド?」
「よーし。ここから何が一番近かったっけ?」
「ミスドじゃねぇ?」
「じゃ、行こう!2個までねー」
「制限つけるかてめぇ」
「だって月末で金欠だもーん」
いつの間にか、泉と沼井はいい雰囲気にうち解けていた。
「…充君って何気に甘党?」
ミスドに入って、妥当にドーナツを選ぼうと腰を屈めた沼井に、泉が突然話しかける。
「…なんで?」
「いや、だってチョコとか見てるし」
「俺激甘党。ファミリーの中で竜平の次に甘党」
「へぇ、いっがーい!オールドファッションとかクールに選ぶかと思ったぁ」
けらけらと一人でうけている泉は無視。別にオールドファッションが嫌いな訳じゃない。ただ、チョコとかの方が好きなだけだ。
とりあえず2人でドーナツを2つずつ、あとココアを2つ。会計のお姉さんに言おうとしたとき、ちょっと見られてて居心地が悪かった。きっと沼井のオレンジ髪と、泉のお嬢様風の雰囲気が妙な感じだったのだろう。
ま、端から見れば当たり前の意見だが。教師とかに知られたら間違いなく沼井は何をやってたんだと言われることとなりそうだ。不良もなかなか大変だ。
「1350円です」
と言われた。
…すぐに金を出せばいいものの、何故か泉は金を出さない。どうしたんだと沼井は横を見る。
と。
ガサガサと、鞄の中を荒らしまくっているではないか。何やってんだこいつは。
「何やってんだよ」
「…あのね…」
いやもう予想できたのだが。その証拠に、沼井の手は後ろポケットの方に伸びている。
「さ、財布…」
「もういい」
沼井、ため息。いやに使い込んだ財布の中を見ると、2千円と小銭が少し。何とか足りた。助かった。
まだ見慣れない2千円札を付け爪がキラキラと自己主張するお姉さんの手に渡す。お釣りが返ってきた。
しょぼんと肩を落とす泉。ま、最初からあんまり期待してなかったけどさ。
「ごめんなさい…」
「もういいって。食えよ」
せっかくここまで来たのだから、と沼井は顎でドーナツを指してみるが、向かい側に座った金井はまたはぁッとため息をついた。
「何でこう、あたしってドジなのかしら。ノート運びなんか任されちゃったし、さっさとやればよかったのに階段から落ちるし捻挫するし。あまつさえ財布忘れて奢るはずだったのに奢らせちゃうなんて…」
独り言。いやいや、見事に落ち込んでおられます。沼井は苦笑した。
「……ハァ…今日は厄日かなぁ…」
極めつけのこの一言。おいおい、俺とドーナツ食うのがそんなに嫌か?
「俺はついてたけど」
2個目のドーナツにかぶりつきながら、沼井はぼそりと言う。
半分涙目の泉は顔を上げた。おーい、んなことで泣いてどうする。人生強く生きてけって。
「ドーナツうめぇし」
それは…と言う泉を目で制する。ま、聞けって。
「金井の下の名前知ったし」
「え?」
「金井がどんだけ天然でおもしれぇやつかってのも分かったしな」
ポカンと見つめるその泉の顔を見て、思わず沼井は笑ってしまった。
「なぁ、泉?」
にこっと。
「俺は、今日楽しかったけど?」
ちょっと沼井が腰を浮かす。
「礼は、分割でいただくぜ」
固まって声が出なくなってしまった泉の頬に、軽く唇を押しつけた。
「あと、10回くらい、かな」
泉、赤面。頬に手を当てて、やたら楽しそうな沼井を凝視する。でもその顔は、まんざらではなさそうで。
見た目ちょっと違和感ありなカップルが誕生するのは、そう遠くない未来のことかも知れない。
「…信史!何あれ?ちょっと何あれー!!」
「いやぁ、沼井もやるね。あいつ結構女の扱い方知ってやがんな」
「うわー金井ー!!そんな、沼井とくっつくなんてー!!」
「うるさいぞ豊。しょうがないさ、現実は素直に受け止めろ」
「かーなーいー!!」
「ほらほら、見られてるじゃないか。女なんか星の数ほどいるぞ豊!」
「うーわ―――っ」
end.